珈琲記

敬愛するコーヒー研究家、井上誠氏の著書より題を借り、私もここに、私が愛したコーヒーを記そうと思う。

Chapter.10 - 記す

f:id:oujiro_coffee:20150306055514j:plainPicture.1 - Blue Flower / RCP

 

最近、趣味が増えた。それは写真を撮ることである。

 

母方の父が使っていたカメラを譲り受け、気まぐれにもウン万円をかけて整備した挙句レンズまで買いそろえ(かつTwitterのフォロワー各位からお恵みーー即ちバッグとかフィルムとかであるがーー)を頂いた私は、この酔狂な、時間を切り取り記す機械に嵌っている。

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Picture.2 - KOUJI / RCP

 

ランニングコストが洒落にならないレベルでかかる曲者だが、なるほど撮ってみた写真を見れば、すぐにその時の何かしらが思い起こされてよいものである。

ただ写真を撮るだけならば、現在一人一台が当たり前になっているスマートフォンでも可能である。

しかし、そこに何かしらの労力と拘りと、ほんの少しの自分の中の「好き」を掛け合わせることで、スマートフォンの、手軽であるがゆえに雑多に、煩雑に増え続ける写真と違い、そこに趣と特別な何かしらの感情が生まれるのかもしれない。

 

ここ1か月以上更新していないうちに、とんでもなくお金を食う趣味が増えたが、それはそれで私は満足しているのであった。

 

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Picture.3 - Nikon EL2 '77 / Ai NIKKOR 50mm f/1.4 ...僕の現在愛用しているカメラ

Chapter.9 - 誕生日

私がこの世に生を受けてから、今日で22年が経つことになる。

Twitterにおいては私を22歳と信じない人も多いが、私は正真正銘の平成5年生まれであって、まだまだこれからの人間である。自分で言うことでもないかもしれない。

 

このコーヒーという液体に惚れてから4年目、もうそんなに過ぎたのかと思うのと同時に、まだまだこれから先の長い人生、願わくばこの琥珀の液体に身を沈めて、自らの生を全うしたいと思ってしまう。

 

自らの誕生日を己で祝うことは滑稽かもしれないが、私は今ここにいられることを感謝している。

あとTwitterにおいては、多くの人に声をかけてもらうことができて、”ああ、こんなのも悪くないな”と思っている。

 

来年の23歳の誕生日まで、私がまた一回りも二回りも人間的に成長できるよう、自分に祈っておくこととしよう。

Chapter.8 - 2014~ゆくとし、くるとし

このブログの本来の目的に即して、僕の変化の一年であった本年を珈琲とともに振り返ってみることとする。

 

北海道で勤めていた某喫茶店で、日に百何十杯という珈琲を落とし続け、珈琲の何たるかを考え、そして私は、それが暫くの間続くものだと思っていた。

f:id:oujiro_coffee:20140324073456j:plainPic.1 - Meissen Dragon(Yellow)

f:id:oujiro_coffee:20141231105153j:plainPic.2 - RCP - Brown Rose

(上2枚の画像はどちらも私がいた店のものであるが、もしかすると簡単に特定をされてしまうかもしれない)

 

また、私の居場所とも呼べる喫茶店があって、そこは私の隠れ家であり、憩いの場であった。疲れきったり、ひどくつらいことがあったりすると、私は決まってそこで珈琲を飲んだ。

f:id:oujiro_coffee:20140116134038j:plainPic.3 - Augarten Maria Theresia

f:id:oujiro_coffee:20130722170433j:plainPic.4 - 今右衛門 蘭絵紅茶椀

(深煎り一等派のこの店は、まさに僕好み。その一本筋の通った珈琲への真摯な働きかけで作られた珈琲は、クオリティももちろんのこと、それ以上の上質な”何か”によって彩られている。柿右衛門や今右衛門のカップで珈琲を出す店なんて、北海道でここくらいだろう。[Chapter.7参照])

 

しかし一つの転機が、突然に訪れた。

9月末、僕は東京の地を踏んだ。

とある事情がきっかけで、こちらに来ざるを得ない状況となってしまったためである。

もちろん悲観ばかりもしていられないし、メリットはあった。

東京の珈琲は軒並みレベルが高い――そう聞いていた私は、せっかくの機会だし珈琲を飲み歩くことを趣味にでもしつつ、働こうかと考えた。

 

f:id:oujiro_coffee:20141104105629j:plainPic.5 - Richard Ginori Museo Classico

(東京の新店舗にて)

 

だが現実はそうもうまく行かない。

それに加えて、同じ店で再度雇ってもらったのだが、以前ともちろん働く環境も、人間関係も違ううえ、仕事の内容までいちからやり直し――と、相当に私には堪える事態に陥った。

正直な話をしてしまうと、相当にストレスがたまっていたし、今でも結構ストレスになっているところはある。

 

そういった部分があって、たまに北海道に戻りたくなるときもあるのであった。もちろん北海道にいたころ、カウンターで珈琲を落としていたその店で、しかしやり残したことも沢山あったからというのも理由の一つとして挙げられる。

 

東京に来て、悪いことばかりではなかった。

様々な人と出会い、見聞き、もちろんとんでもない地雷を引き当てて、よほど知能レベルの低い相手に辟易したこともあったけれど、それでも多くの人と、それも性別や職業といった枠にとらわれず、会って、話して、遊んだりもした。

その中で私をきっかけにして、珈琲に興味を持ち始めてくれた人たちがいて、あるいは珈琲という飲み物を再認識し、より深みを目指そうという人たちがいて、彼ら彼女らと珈琲とを結ぶきっかけとなれたとすれば、私としては僥倖でもあった。

 

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Pic.6 - 珈琲を自分の趣味にしたいという某氏が一歩を踏み出した瞬間

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Pic7,8 - 7月末の旅行にて、Twitterで私を知る人達との「喫茶店」でのオフ会があったりもした

 

他にも、こちらに来てから私がほしかったカップの在庫がごろごろと出てきたり、

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Pic9,10,11 - Wedgwood Dynasty[Chapter.5参照],Amesyst,Whitehall Powderblue

 

名所行ってみたりと(珈琲関係なし)、

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Pic12,13 - 浅草浅草寺,靖国神社

 

何だかんだで楽しんでいるので、来年も多分何とか楽しくやっていけるだろうと思いつつ、そうなるよう願っている次第である。

 

くるとし2015年、さて来年はどんな1年にしようか。

 

桜次郎(@oujiro_coffee) 2014.12.31

 

 

 

 

Chapter.7 - "基礎"

どのような物事においても、基礎や基本といった、所謂物事の根幹であって、そのもの自体をシンプルに体する「何かしら」というのは、肝要なものである。

 

そのものについての本質を常に問い、その本質を常に土台に晒している。

そしてそれは鏡であって、常に自分が正しく映っていなければならない。

 

 

さて、本日の記事で紹介するのは、そんな洗練された世界にぽつんと在る、僕の北海道での行きつけのお店。

 

一本筋が通っていて、頑固で、一度拘ればそこに際限がない。

そんなカタブツの店主と、その店と人柄と、そんな店主が作ったコーヒーに魅せられてカウンターに立つ女性がいる、静かであたたかな場所である。

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【ブレンドコーヒー】

- この店は貴重な西洋陶磁器と、和洋折衷が情緒を醸す日本の焼き物でコーヒーを提供する。曰く「薄い、軽い、職人の拘りがある」。写真は柿右衛門絵付けのコーヒー椀皿。

 

「大量生産」が騒がれる今のご時世に、コーヒー豆を日々小まめに焙煎し、コーヒーの1杯1杯を――それがどんな客やコーヒーであっても――、必ず1杯点てで抽出する。

それがこの店のコーヒーであって、しかしそれはコーヒーの「本質」であり、即ち「基本」なのであった。

先述のような時代だからこそ、こういった「コーヒーとは何たるや?」という問いを常に投げかけてくる店と、常に自分に問い、その答えを追求せんとコーヒーに向き合っている人間が、必要なのだ。

 

この店のコーヒーは、全て焙煎度合が深煎りであって、この深煎りはその辺で言われる「フルシティ」程度の中深煎りではない。

全てフレンチローストか、それより上の、ひどく丁寧に煎られた豆であって、それは昨今の「共通言語」で語られるようなコーヒーの香味なんかを、スパッと一太刀にして断ち切るような、そんな力強さと雰囲気が醸されたコーヒーである。

 

「これぞコーヒーである」と、その手で、背中で、生き様で語りかけてくる――そうして得られたコーヒーは、一口啜れば、その琥珀の液体の本質が沁みついていくのだ。

 

 

本日紹介したのはこちら。

 

■深煎りの珈琲 Basic

北海道札幌市中央区大通西10丁目 南大通ビル地下1階
地下鉄東西線 西11丁目駅 3番出口階段から直結)

営業時間 月~金曜日 9:00~21:00
土曜日 11:00~19:00
定休日 日曜・祝日

TEL 011-271-9043

http://www4.ocn.ne.jp/~basic-co/

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Chapter.6 - 本質

珈琲は、即ち嗜好品である。

その純粋な飲み物の素性については、以前の投稿でも書いてきたし、僕の敬愛する井上氏も、たとえば、

 

「珈琲の持つ滑らかな、そして何処か多感な肌合い。その眼に映る濃い色は、決して黒でもなく、また茶褐でもなく、金と赤との融け合った光をひそめた奥深い調子を持って、自らそのある時と所に応じて人の心の傍らに寄り添ってきます。

 誰も珈琲をかけ離れたものだとは思わない。非常に親近なものとしてしか感じられない、その温かさは、格別目を見張る程のものもないのに、豊かな心を引立たせて、何のくもりもない気宇を抱かせてくれます。それは伸び伸びとした爛漫さを持つ自由な気質です。(珈琲記/井上誠.ジープ社.1950)」

 

などとして讃え、常に敬意を払った調子でいる。

 

結局のところ珈琲という飲み物は常に時代と人と共にあり、そのニーズに即してきたのであって、現在もそれは変わらずにある。

しかしその本質は単純明快であって、珈琲という飲み物は、求めた者の求める姿に応じて変容でき、シーンに合わせたかたちで提供されることができるほどに、広く深いポケットを持った飲み物なのであった。

故にそこに解などはなくて、あるのはただの己自身であって、それは常に静寂を湛えた琥珀色の液体に映し出されるのである。

 

その本質を捉えてしまえば、珈琲とは即ち己であり、珈琲を識るとは即ち自身を以てして知己を得ることと同義であると気づかされる。

手練をして何たるか、というものは珈琲に限らず、結局のところ常にそういうことなのであって、ただ珈琲に限って言えば、ただそこに一杯の珈琲があって、それを突き詰め求めるだけなのである。

では拘るをして、何を識り、どこまでこの純粋で清純な液体と、それらを取り巻く因果と、この飲物が見てきた景色をその眼と心でもって見るかというのは、繰り返すけれども自分自身なのであって、それでよいのであるが、珈琲というこの飲物は常に「求めた者」に心を開き、その知見が広く深いほど、純粋さを以てして返してくる――そんなように、私は思えるのである。

Chapter.5 - はじまり

私はそれまで、コーヒーというものにあまり縁がなかった。

どちらかというと洒落と道楽で飲んでいるイメージしかなかったし、もともとコンピュータを弄るのが好きだった私は、その界隈でよく飲まれていたエナジードリンクといったたぐいのものを好んで飲んでいた。

 

でも、ある日すべてが変わってしまった。

自分が描いていたおぼろげな未来は、しかし脆くも崩れ去ってしまった。

詳しくはここで書かないし、書く気もないし、けれども未だに納得のいかない出来事だったけれど、私は私なりに一つの記憶として収めることができて、結果として今とても満足している。

 

さて、そんな「とある出来事」があって、当時の僕は酷く絶望していて。

そんな時にはじめて接したのが、一杯のコーヒーと、美しいコーヒーカップだった。

 

そのコーヒーは、疲れ切った私を癒してくれた。

そのコーヒーは、静かな時間を与えてくれた。

とても"それ"は、私の知っている飲み物ではなく、全てにおいて洗練されていて、素直であった。

 

そうして私は、この有象無象が蔓延る世の中に、それでも一つの何かを究め求めようとする世界があることを知って。

同時に私は、翌日からそのコーヒー屋で、「コーヒーの何たるか」の知識を、断片的に教えてもらうことになったのである。

 

結果として私は今そのコーヒー屋にはいないし、自分で知識を得んと躍起になっているけれど、私がコーヒーの深淵を知りたいと欲し、識るを得る全てのはじまりは、そこにある。

そうしてそれは、変わりようがないことであった。

 

そのコーヒーは、未だに私の知るひとつの標で、そのコーヒーカップは私の弱く脆い心を支えてくれる。

 

ようやっと手に入れたので、些細な記念に私のはじまりを振り返ってみた。

 

そのコーヒーカップの名前は、Wedgwoodの「DYNASTY(ダイナスティ)」――。

 

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Chapter.4 - 記憶

ナルミ食器の「シャグリーン」というコーヒーカップがある。

白磁と黒と銀彩は美しく、そのソーサーは独特な触り心地である。

エスプレッソカップと呼ばれるサイズと、汎用の大きいサイズとがあって、"彼"はよくその大きなカップでもって、フルシティに焙煎され混ぜられた最上のコーヒーを飲んでいたのであった。

 

偶然にもコロンビアのクレオパトラという品種が手に入り、その当時いた店はブレンド2種類しかコーヒーを提供しない堅物な店であったが、その店で出していたブレンドのうち片方の根幹であった「コロンビア」が、試験的にクレオパトラに切り替えられたりもしていた。

コロンビアと一口でいうとスプレモ、エキセルソあたりを思い浮かべる人が多いかと思うが、当店のブレンドの「コロンビア」はピコ・クリストバルであって、これを丁寧にハンドピックで精査して、年代物のブリキのハンドロースターで焙煎していたのであった。

その他に混ぜていたのは中米、中南米系の豆であって、非常に香味豊かなそのブレンドは、そのベースをクレオパトラに変えてみたことで、奇跡的にさらに調和のとれたコーヒーとなったのであった。その柔らかく懐かしい香味は私がコーヒーを追い求めるきっかけにもなったし、今でも私の脳裏に、鼻に、舌に、喉に、記憶として鮮明に残っている。

 

さて、そんな「かのコーヒー」を、愛用のシャグリーンにたっぷりと注がれ、"彼"はうまそうに飲み、煙草を燻らせては歓談に興じていた。

そうそう、店に客がまったく入らなかったある夜なんかは、私と"彼"と二人で将棋なんかを指しながら、とりとめもない話をしていたものだ。

そういえば、生鮮食品を全般的に扱っていた"彼"に、特に野菜の鮮度の見分け方や運用方法なんかを教えてもらったりもしたものだ。今でもその知識は、とても役立っている。

 

記憶というのは形がなく不確かなもので、いつ擦れ消えゆくかもわからないけれど、だからこそ、そこに一杯のコーヒーがあれば、そこにカタチとして存在するものがあれば、それは決して変わってはいけない。そこに変わらないコーヒーと、変わらない何かがあれば、その記憶が自分やある人にとって大切である限り、その黒くすべてを映し出すかのような液面に、必ず鮮明に残り続けるのである。

 

"彼"はまだ若くしてこの世を去った。今年のはじめのことらしかった。

「大動脈瘤破裂」、意識不明の状態から病院に運ばれたらしいが、その道中に息を引き取ったそうであった。

 

僕は、鮮明に記憶しているあのコーヒーを、もう一度自分の手で焙かなければならない。

そうして僕は、"彼"によく合ったあの大きなカップで、コーヒーを飲まなければならない。

はじめのうち、それはエゴではないかと迷ってはいたけれど、例えそれがエゴだとしても、僕が思い出して、覚えていたい貴い記憶なのだから、それでよいのだという結論に至った。

そして同時に、それが実現されたとき、初めて私の"彼"への弔いと手向けとなるのだろうと、そう確信している。