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珈琲記

敬愛するコーヒー研究家、井上誠氏の著書より題を借り、私もここに、私が愛したコーヒーを記そうと思う。

Chapter.0 - 珈琲記

昭和のコーヒー研究家 井上誠氏は、その著書『珈琲記(昭和25年.ジープ社)』の書きはじめに、こう記している。

 

「珈琲という飲物への思慕、などといえば、大袈裟に聞こえるでしょう。しかし、それはただ単に珈琲マニヤだけが陥る世迷言だとは思われない本然の美しさを、珈琲それ自身が持っているのです。

何時からともなく、恐らく偶然の機会に、珈琲は世に出たものと思われます。そして珈琲というものについては、今迄別に何という意味づけも行われてはいないのですが、それはいわば、自然に、人間と珈琲とが邂逅したのだと思われることで、何時も価値あるものにつけられ勝ちの粉飾を珈琲自体としては何程も持たないのです。

むしろ何というよさだろうと思うのです。特に目覚めた後の珈琲(筆者注釈: 珈琲そのものが長い歴史の中で、その日の目を見たという解釈が妥当である)は、至極尋常な、いわば普通人と異ならないものです。それはそのよさを少しも失うことではなく、伸び伸びとした珈琲の本然の姿を正直に現わしていることなのです。(珈琲記 - 交誼の飲物としての珈琲 より抜粋)」

 

この文章は、端的にコーヒーが本来持ちうる佳さが、その本質が書かれている。

コーヒーという飲料は、常に求める人に応え、寄り添い、その意義を見出してきたのであって、われわれがコーヒーを生かす時、はじめてその液体は琥珀色の輝きを、その本来的な意味合いで以てして得るのである。

 

その液体は、静かに寄り添ったひとびとと、その歴史を見つめて、今日までなにものにも邪魔立てをされず、発展をしてきた。

私は、私なりにそのコーヒーの記憶の一片を紐解き、そこからコーヒーという飲料の「伸び伸びとした珈琲の本然の姿」を、ここに記せればと、そう考えている。

 

また同時にコーヒーという飲料の、これからも続いていくであろう長い歴史のなかで、その一瞬の彩を飾ることができれば、私としては僥倖である。

 

ゆえに、私はこのブログのタイトルを、冒頭に紹介した井上誠氏の著書よりお借りし、「珈琲記」と名付けた。

 

ここには今後、私が感じたこと、考えたこと、あるいは体験したことなんかを基とし、私なりの「コーヒー」を描いていこうと、そう考えている。