読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

珈琲記

敬愛するコーヒー研究家、井上誠氏の著書より題を借り、私もここに、私が愛したコーヒーを記そうと思う。

Chapter.1 - 琥珀色の鏡

寝覚めの一杯は、深煎りの豆を使って濃厚に抽出したコーヒーに、あたためたミルクを同量割り入れ、バターをたっぷりと塗った、芳醇なかおりのクロワッサンなんかとともにいただく――。

フランスの「カフェ・オ・レ」なんかはこうして嗜まれているが、コーヒーという飲物を、目が覚めるからという理由で飲んだり、活力とするために飲んだりすることがある人は、恐らくかなり多いはずである。

それはもちろん全く問題ないものであって、シーン別、シチュエーションごとに異なったコーヒーの親しみを以てして楽しんでくれればそれでよいのであるが、もう少し趣の違う、即ち感傷であったり感慨であったり、そういった情緒的な(あるいは感情的な)コーヒーというものについて、書いていきたい。

 

私は色々な喫茶店を渡り歩き、その味と拘りを勉強させていただくのを、コーヒーに携わってから今日までの楽しみとしてきたが、その中で最近気づいたことがある。

ふと一人になりたい時、考え事をしたい時、疲れを癒したい時、あるいは辛いことがあった時――そういう、心が少し湿った空気に侵された時に求めるコーヒーがある、ということだ。

勝手な思い込みかもしれないが、人は自分の精神が追い詰められたとき、様様ある極まりのなかで、一番「好もしい」と感じる――即ち、自身の中に存在する、最もおいしいコーヒーを、求めるのではないだろうか。

それは静かに供され、少しの濁りもなく柔らかな琥珀色を湛えている。

一口すすれば、即ち一種の救いを得るが、しかし同時に澱むことない清純な液体は、今の自分を一点の曇りもなく映し出す。

そうして心安らかに、自発的になのか、あるいは結果としてなのか、それはさておくとしても、コーヒーという鏡を通して自分を見つめ直すことで、今度こそ真に救われるのである。

 

……なんていうのは、前述のとおり勝手な思い込みかもしれない。

しかし恐らくは確実に、現実を映し出すだけの冷徹な鏡ではなく、そのあたたかく柔らかな琥珀色の鏡に、救われた人は多いだろう。

私は辛い時や苦しい時、決まって深く丁寧に煎られたコーヒーを求める。

そうしたコーヒーを飲みつつ、「こんなに苦いコーヒーでも、その中でしっかりと己を己と主張しているではないか」「芳醇で爽やかなかおりは、まるで気高さの象徴だ」などと感じるのである。

そうして、それだけ苦いコーヒーでも、柔らかな甘みを私の味覚にしっかりと伝えてくれるのであって、まるでそれが一種の希望のように感じるのである。

このようにして私はコーヒーに自分を投影し、自分を慰めることで、日々の活力としている。

 

コーヒーは、その本質を求め欲する人間に対して、決して出し惜しみをせず、全霊で応えてくれる。それはこの飲物が地に根を下したその瞬間から全く変わることなく、今まで培ってきた、ひとつの解なのであった。

それは寝覚めのカフェ・オ・レとは全く違った、しかし本質的な意義としては全く変わらない、コーヒーという飲物の持つ、一側面なのであった。