読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

珈琲記

敬愛するコーヒー研究家、井上誠氏の著書より題を借り、私もここに、私が愛したコーヒーを記そうと思う。

Chapter.2 - 喫茶店という場所

多様な場所に多様なかたちで、その居を構える喫茶店。

土地柄や地域のニーズによって求められるものは違えど、携わっているひとびとの、その根幹には常に「佳いものを提供する心」があってほしいものである。

 

なんていうのは、なかなかどうして難しいもので、「佳いもの」に拘ろうとし始めた途端、自身のエゴが鎌首を擡げ、自己中心的な客のニーズに振り回されるのを好もしく思わなくなる。

だが、これは「接客業」としては間違いなく成り立たないが、その道を追求せんとして喫茶の名を掲げる「専門職(と便宜的に呼ぶことにする)」としては、大いに正しいのではないだろうか。

 

未だに有名な喫茶店、吉祥寺は『もか』が存在していた頃の店主、故・標氏は「感動を誘うコーヒー」を焙き、点てることで有名であった。

しかし彼にはコーヒーに纏わる逸話も多く残されていて、例えば「完璧を追求し完成させたコーヒーにミルクやシュガーを入れられると、鬼のように怒り出した」とか、「提供したコーヒーを、器の中に本当に数ミリ程度残されただけで、店を出た客を追いかけて残した理由を質した」なんていうものがある(参照例として コーヒーの鬼がゆく 吉祥寺「もか」遺聞(嶋中労.平成24年.中公文庫) ,内容は意訳したものである)。

 

たかだか80ml - 150mlくらいの液体ひとつに、と言ってしまえばそこまでだが、それでも確かにそこに己の人生をかけ、拘りを貫いた人が、先述の標氏のみならず、何人もいたのである。

 

私なんかは、自身が働いている店の立地上、例えば競馬やパチンコ、宝くじなんかをやっている団塊の世代が客層として厚く、彼らの大多数は「それらのことを行うため、都合の良い場所」として場所代代わりにコーヒーを頼む。

ゆえにかなりの心労を強いられるが、それでも表向きは「喫茶業」という名の接客業を全うすべくにこやかに接していて、だがそういったことがある度に、自分は「接客業がやりたいわけではない」と確信するのである。

否、客に接するという意味では接客業である。しかし根本として、「客の求めるニーズに応える」ではなく、「自身の積み重ねたただ一杯のコーヒーを認めてほしい」という、自分主体の考え方がある。

 

そんな中でも、どういう客でもひれ伏し――例えば普段、競馬の馬順のことしか頭にないような相手だったとしても、ふと「おいしい」と一瞬でもコーヒーに関心と興味を向けてくれるような――、感動をさせるコーヒーを、求めていきたいと思いながら日々コーヒーを点てているし、それはきっと客ライクではないエゴイズムに満ちた考え方だけれども、それこそがコーヒーを愛し、愛したい者の勤めなのだろうと、そう確信している。

そして同時に、それはコーヒーのみならず、全てのことに言えるのだろう。私が毎日歯を食いしばり、接客に臨む、ただ一点の理由である。

 

喫茶店という場所は、確かに歓談し、時には安らぎ、或いは休憩に立ち寄り、などとそのニーズはさまざまであるが、しかし常に佳いものを目指し、提供することで、その「場所」としての需要ではなく、「場所」そのものの本質を、問い続けたいものだ。