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珈琲記

敬愛するコーヒー研究家、井上誠氏の著書より題を借り、私もここに、私が愛したコーヒーを記そうと思う。

Chapter.4 - 記憶

ナルミ食器の「シャグリーン」というコーヒーカップがある。

白磁と黒と銀彩は美しく、そのソーサーは独特な触り心地である。

エスプレッソカップと呼ばれるサイズと、汎用の大きいサイズとがあって、"彼"はよくその大きなカップでもって、フルシティに焙煎され混ぜられた最上のコーヒーを飲んでいたのであった。

 

偶然にもコロンビアのクレオパトラという品種が手に入り、その当時いた店はブレンド2種類しかコーヒーを提供しない堅物な店であったが、その店で出していたブレンドのうち片方の根幹であった「コロンビア」が、試験的にクレオパトラに切り替えられたりもしていた。

コロンビアと一口でいうとスプレモ、エキセルソあたりを思い浮かべる人が多いかと思うが、当店のブレンドの「コロンビア」はピコ・クリストバルであって、これを丁寧にハンドピックで精査して、年代物のブリキのハンドロースターで焙煎していたのであった。

その他に混ぜていたのは中米、中南米系の豆であって、非常に香味豊かなそのブレンドは、そのベースをクレオパトラに変えてみたことで、奇跡的にさらに調和のとれたコーヒーとなったのであった。その柔らかく懐かしい香味は私がコーヒーを追い求めるきっかけにもなったし、今でも私の脳裏に、鼻に、舌に、喉に、記憶として鮮明に残っている。

 

さて、そんな「かのコーヒー」を、愛用のシャグリーンにたっぷりと注がれ、"彼"はうまそうに飲み、煙草を燻らせては歓談に興じていた。

そうそう、店に客がまったく入らなかったある夜なんかは、私と"彼"と二人で将棋なんかを指しながら、とりとめもない話をしていたものだ。

そういえば、生鮮食品を全般的に扱っていた"彼"に、特に野菜の鮮度の見分け方や運用方法なんかを教えてもらったりもしたものだ。今でもその知識は、とても役立っている。

 

記憶というのは形がなく不確かなもので、いつ擦れ消えゆくかもわからないけれど、だからこそ、そこに一杯のコーヒーがあれば、そこにカタチとして存在するものがあれば、それは決して変わってはいけない。そこに変わらないコーヒーと、変わらない何かがあれば、その記憶が自分やある人にとって大切である限り、その黒くすべてを映し出すかのような液面に、必ず鮮明に残り続けるのである。

 

"彼"はまだ若くしてこの世を去った。今年のはじめのことらしかった。

「大動脈瘤破裂」、意識不明の状態から病院に運ばれたらしいが、その道中に息を引き取ったそうであった。

 

僕は、鮮明に記憶しているあのコーヒーを、もう一度自分の手で焙かなければならない。

そうして僕は、"彼"によく合ったあの大きなカップで、コーヒーを飲まなければならない。

はじめのうち、それはエゴではないかと迷ってはいたけれど、例えそれがエゴだとしても、僕が思い出して、覚えていたい貴い記憶なのだから、それでよいのだという結論に至った。

そして同時に、それが実現されたとき、初めて私の"彼"への弔いと手向けとなるのだろうと、そう確信している。