珈琲記

敬愛するコーヒー研究家、井上誠氏の著書より題を借り、私もここに、私が愛したコーヒーを記そうと思う。

Chapter.6 - 本質

珈琲は、即ち嗜好品である。

その純粋な飲み物の素性については、以前の投稿でも書いてきたし、僕の敬愛する井上氏も、たとえば、

 

「珈琲の持つ滑らかな、そして何処か多感な肌合い。その眼に映る濃い色は、決して黒でもなく、また茶褐でもなく、金と赤との融け合った光をひそめた奥深い調子を持って、自らそのある時と所に応じて人の心の傍らに寄り添ってきます。

 誰も珈琲をかけ離れたものだとは思わない。非常に親近なものとしてしか感じられない、その温かさは、格別目を見張る程のものもないのに、豊かな心を引立たせて、何のくもりもない気宇を抱かせてくれます。それは伸び伸びとした爛漫さを持つ自由な気質です。(珈琲記/井上誠.ジープ社.1950)」

 

などとして讃え、常に敬意を払った調子でいる。

 

結局のところ珈琲という飲み物は常に時代と人と共にあり、そのニーズに即してきたのであって、現在もそれは変わらずにある。

しかしその本質は単純明快であって、珈琲という飲み物は、求めた者の求める姿に応じて変容でき、シーンに合わせたかたちで提供されることができるほどに、広く深いポケットを持った飲み物なのであった。

故にそこに解などはなくて、あるのはただの己自身であって、それは常に静寂を湛えた琥珀色の液体に映し出されるのである。

 

その本質を捉えてしまえば、珈琲とは即ち己であり、珈琲を識るとは即ち自身を以てして知己を得ることと同義であると気づかされる。

手練をして何たるか、というものは珈琲に限らず、結局のところ常にそういうことなのであって、ただ珈琲に限って言えば、ただそこに一杯の珈琲があって、それを突き詰め求めるだけなのである。

では拘るをして、何を識り、どこまでこの純粋で清純な液体と、それらを取り巻く因果と、この飲物が見てきた景色をその眼と心でもって見るかというのは、繰り返すけれども自分自身なのであって、それでよいのであるが、珈琲というこの飲物は常に「求めた者」に心を開き、その知見が広く深いほど、純粋さを以てして返してくる――そんなように、私は思えるのである。