珈琲記

敬愛するコーヒー研究家、井上誠氏の著書より題を借り、私もここに、私が愛したコーヒーを記そうと思う。

Chapter18. 深煎りの魅力をもとめて

※ちょっと本題までが長いですが、この記事は珈琲豆屋さんの紹介記事です。

※ダラダラと長文・支離滅裂で申し訳ありませんが、以下同文。

 

■嗜好性としての珈琲

私が敬愛する昭和の珈琲学者、井上誠氏は自著「珈琲の書(柴田書店)」の「はじめの言葉」にて、次のように書いている。

 

―――――――

 コーヒーは長い間ヴェールを覆って、容易に人の前に現わさなかった。だが、その面(おもて)を包む布の下の凝視する目に気づき、温もった息吹きの洩れてくるのを感じ取って手を伸べたとき、いくらかあとずさりしながらも身を投げて来た姿態は、香りをたてて人の心をゆさぶるものであった。

 それはおおよそ約束などという、わだかまりのあるものではなく、結合のしるしを示す言葉であった。それから人は、コーヒーを離さなくなった。手に入れたコーヒーは数限りなく子供を産んだ。それはちょうど人の数と同じほどであった。コーヒーの極まりは、みなその人にあるといえる。

―――――――

 

私はこの「はじめの言葉」が好きだ。

人間がコーヒーに寄り添い、コーヒーが人間の営みの背景をして人々を見つめて、そうしてコーヒーがあってからの今日までの歴史がある。

少し話は逸れるけれど、コーヒーをめぐる歴史については、さまざまな書籍にて確認ができるが、現在であれば以下がおすすめだ。

 

珈琲の世界史(講談社現代新書) - 旦部 幸博 著 (Amazonリンク)

https://www.amazon.co.jp/dp/4062884453/ref=wl_it_dp_o_pC_nS_ttl?_encoding=UTF8&colid=I8K8FR4HCZBB&coliid=I3KNTLH735H0YT

 

上記に挙げた昭和の珈琲学者である井上氏に対し、旦部氏は平成の珈琲学者と呼ばれている、現代の珈琲フリークでまずはじめに名前が挙がる人だ(と、私は認識している)。

 

さて、話を戻すが、この「はじめの言葉」の一番最後に、珈琲という嗜好品について一番大切なことが書いてある。つまりは、「コーヒーの極まりは、みなその人にあるといえる」ということだ。

 

昨今、珈琲豆の均質化、全体的な品質の担保を名目に(というのは一部の理由でしかないけれど)、スペシャルティというジャンルの”人の手が過分に加わった”珈琲豆たちが台頭してきた。

それに伴って、それらの豆の焼き加減も均質化され(厳密にはそう指示されたわけではないが、スペシャルティを焙煎する店はどこも一定度のミディアム・ローストに抑えて売る傾向が見受けられる)、「様々な比喩」で例えられる風味を佳しとし、それ以外の豆について蔑視するような声まで聞こえてくる。

それは、深煎りの苦い、鼻を抜ける香ばしい香りが好きな私からするととても残念な流れであって、そしてやはりコモディティの豆もまた魅力と考える私からすると、とても残念な流れであった。

 

■「深煎り」という嗜好

私が敬愛する昭和の珈琲学者、井上誠氏は自著「珈琲誕生(読売新聞社)」の「序詞」にて、次のように書いている。

 

―――――――

珈琲の飲料は見るからに

黒くて苦い

それはいかにも直接な

それ自身の素顔であった

(後略)

―――――――

 

私は、この時代の井上誠氏が描く「珈琲」という液体は、この詞に集約されているのだと考える。

つまりは深煎りの黒々としたうつくしい豆を煎る人間がそこにあって、それをやはり丁寧に、液面が鏡のような珈琲を点てる人間があった。

それが珈琲という液体の本質だ、と彼はそこで言っていた。

 

日本の珈琲文化の中で、自家焙煎の深煎りが愛された一幕があった。

それらは家庭に簡易に飲める珈琲という文化が染み込み、緩慢なときの中で、その日を迎えるまで停滞していた。

しかし食事を主とするカフェが標準化していき、大きな国から「シアトル系」と呼ばれる異文化が持ち込まれると、その文化は一気に壊滅した。

それからサードウェーブと呼ばれる「珈琲それ自体の嗜好性を高級化・ブランド化した(本義は違うが、少なくとも日本のサードウェーブにあやかる各位はこう感じているのではないだろうか)」珈琲が出てきて、完全に深煎りの珈琲というのは、古臭い、苦いだけの珈琲だと評価されるに値しないところまで蹴り落されたのである。

 

しかし、どうにも私は、その「苦いだけ」と世間で言われる珈琲に、その香味に、その口に含んだ瞬間に、どうしようもない魅力と安寧を得るようだった。

 

「コーヒーの極まりは、みなその人にあるといえる」、つまりはそういうことで、どうやら私は「見るからに 黒くて苦い」珈琲を愛しているようだった。

 

■深煎りの魅力をもとめて

その店は東京の武蔵境にかまえている。

はた目には気づきづらいが、近くを通るとどうにも言いようのない、香ばしい香りが鼻をつく。

それは珈琲豆を焙煎しているときなんかだと特に顕著で、自然と足が向いてしまう、そんな魅力を持った香りが鼻孔をくすぐるのだ。

 

そのお店の名前は「なつみ珈琲店」という。

f:id:oujiro_coffee:20171114165510j:plain

 Pic.1 - なつみ珈琲店さん。夜の暗い中で撮ったので、見づらい

 

f:id:oujiro_coffee:20171115005137j:plain

Pic.2 - 店内はまさしく「珈琲を焙煎するための場所」といった趣。直火の焙煎窯が目をひく

 

なつみ珈琲店さんは、深煎りの豆を主に扱うお店だ。

中煎りのものも最近は扱うというが、店主さん曰く「やはり深煎りがいい」。

豆の説明も丁寧で、ひとつひとつどのようなものか話してくれる。また、嗜好を話すと、その人の嗜好性に近しいコーヒー豆をオススメしてくれる。

しかし、その豆の本質自体は「自分で飲んでみて」ということで、焙煎した豆で語るのだ。

 

彼の焙煎する深煎りの豆は、そう――丁寧でいて繊細に、「それぞれの豆の個性を殺さない」焙煎だと、私は感じている。

 

それは「黒くて苦い」珈琲であって、しかし「苦いだけ」でない、最上の深煎りだ。

 

■「喫茶店」ではない

小題通り、なつみ珈琲店さんは喫茶店ではない。

つまりドリンクメニューもないし、フードメニューもない。

季節のケーキやスイーツなんてものもない。

 

おいしい珈琲豆をもとめる人のために、おいしい珈琲豆を焙煎して、おいしい珈琲豆を提供する。ただそのために、とてつもない努力とこだわりを惜しまない店だ。

 

だから最終的に、ソレを楽しみ、価値を決めるのは購入した自分自身であって、それはすなわち「みなその人にあるといえる」コーヒーを得るための、自分との対話である。

f:id:oujiro_coffee:20171114215231j:plain

 

f:id:oujiro_coffee:20171114215227j:plain

Pic.3,4 - 購入した珈琲豆は、当然だが持ち帰り自分で淹れる

 

f:id:oujiro_coffee:20171114215738j:plain

Pic.5 - コロンビア・クレオパトラ。丁寧な深煎りの美しい豆であることがわかる

 

f:id:oujiro_coffee:20171114222418j:plain

f:id:oujiro_coffee:20171114222457j:plain

Pic.6,7 - 抽出した液体は琥珀よりは黒く、透き通って美しい。片面起毛のフランネルで抽出した

 

■コーヒーの極まりは……

結局のところ嗜好品、何度も書いているようにそれはみなその人にあるといえるのだ。

だが、さまざまな珈琲を識らずして、自身の嗜好性を狭めてしまうのは極めてもったいない。

様々な豆があって、抽出があって、シーンがあって、そしてそこには珈琲という液体がある。

 

私はこの「丁寧な深煎り」の扱うなつみ珈琲店さんの豆を、珈琲について敬虔な諸氏のみならず、珈琲についてあまり興味のなかった人についても、ぜひひろく試してみていただきたいと思う。

 

 

<本日紹介したお店>

なつみ珈琲店

住所:東京都武蔵野市境2-7-2 センチュリー雅1F

電話:0422-56-9281

営業時間:13:00頃~20:00、日曜日のみ18:00まで

定休日:不定休

 

ブログ:自家焙煎なつみ珈琲 a blessed time2

Twitterなつみ珈琲 Blessed Time (@blessedtime2001) | Twitter

 ※2017/11/15現在はTwitterでの営業情報提供が主とのこと