珈琲記

敬愛するコーヒー研究家、井上誠氏の著書より題を借り、私もここに、私が愛したコーヒーを記そうと思う。

コーヒーの「おいしさ」、ちょっと違う視点のお話。

この記事は コーヒー Advent Calendar 2017 - Adventar 9日目の記事です。 

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■前書き

この手の記事を書くのは初めてなのですが、意を決して参加をした次第です。

この記事以前の皆さんの投稿を見ていますと、意識が高かったり内容がしっかりしていたり……といった感じで、正直私が書いていいものか悩みましたが、最近は毎日が暇なのでノリと勢いだけで書くことを決めました。

 

これ以降本文で展開させていただく自論について、普段私はTwitterで垂れ流す程度しかしていません。

然してこれをちゃんと記事として書こうと思ったのは、ひとえにその「自論」の内容が、昨今軽視される傾向にあるからと感じているからです。

 

素人ながらもコーヒーを愛する身として、気を負わず書かせていただこうと思いますので、ツッコミはナシでお願いいたします(若干日和っています)。

 

 

■コーヒーかんたん世界史

コーヒーは多様であって、アビシニアでその可能性が発見されてからというもの、常に人の営みに、文化に、寄り添う形でその液体は在り続けた。

はじめ薬用をして生豆を煮出した液体をバンとかボンとか呼んでいたころから、気づくと生豆には火が入り煮出され、熱く黒々とした液体は宗教に弾圧され、それでも根強く愛された。

コーヒーはやがて海を渡り、欧州で愛され、液体としての質を追求されていく。有名なドゥ・ベロイのコーヒーポットにはじまり、パーコレーター、ボイラー式、バキューム式サイフォンなど、その抽出の方法が旺盛に研究された。

焙煎についても盛んに研究がなされ、今のドラム式の原型がこのころすでに発案されていた。

 

こういった、コーヒーという液体への熱は、一方で人類の咎にもなりえたし、実際そうなった。欧州諸国の植民地にはコーヒーノキが植えられ、そこで奴隷たちは、自分たちが強い憎しみを抱く人間たちが嗜好品として楽しむ液体のために、日がな休まず労働を強いられた。

このほかにも、時代を問わずコーヒーは人という集団の醜い部分を知っていたし、しかしコーヒーはその事実に否定も肯定もせず、ただ静かに佇むだけだった。

 

ざっくりと近代までを振り返ってみて、次に”日本の”現代のコーヒーについて見てみると、そこには自家焙煎珈琲店の台頭があり、簡易コーヒーなど「コーヒー」にまつわる飲料の波及があり、その後しばらくしてシアトル系と呼ばれるカフェに人々が熱狂した。

火付け役である某チェーン店では、コーヒーやコーヒーではない何かハイカロリーなものを飲みながら、革新的で洗練されたノートパソコンを広げて難しい顔をしてみたりする人が続出することになるが、それはまた別の話なので割愛するとして……。

 

そんな流れを経て、今、サードウェーブコーヒー(コーヒー 第3の波)と呼ばれる、非常に意識の高い潮流がきている。

というかもうきた。

日本人の大半は、その意味をよくわからないまま「ブルーボトルコーヒー」が日本に来ることを知って喜んでいたし、意識が高すぎて雲の上までいってしまったような人は、

 

「ブルーボトル日本開店おめでとう。西海岸で飲む、いつもの味。
僕にとって新鮮みがないことが、成功の証だと思う。」

 

みたいなことを、きっとTwitterか何かで呟いたんじゃないかと思う(敢えてこれ以上は言及しない)。

 

 

サードウェーブサードウェーブって言うけれど 

当然、ブルーボトルが来る前からアメリカでそういった風潮のコーヒーが流行っていることを知っていた人もいるとは思うが、先も書いたように、日本人の大半は「ブルーボトルコーヒー」が日本に入ってきてから「サードウェーブコーヒー」というワードを耳にしたはずだ。

 だから当然、「サードウェーブ」って言われても「なんでいきなり3番目からなんじゃキレるぞ(激おこぷんぷん丸)」みたいな人が出てくる。

といっても理由はいたって簡単で、そもそもこのサードウェーブに至るまで、日本ではコーヒーの第1、第2の波があったということだ。

 

それは前項目で振り返った中にすでに書いてある。

第1の波は「簡易コーヒー」などによって、日本のご家庭レベルにまでコーヒーという飲料が認知されたこと――これ自体を指す。

第2の波はイコール「シアトル系コーヒー」と見る人が多いが、……まぁその認識で大丈夫ということにしておこう。

で、第3の波が来たのだ。

 

さてそのサードウェーブコーヒー、簡単に言ってしまうと「コーヒーの特性をユーザに理解してもらえるように豆そのものから抽出に至るまでを徹底したもの」となる。

もっと端的に一言でいえば、「コーヒー豆本来の価値を強みにする」のが、このサードウェーブコーヒーの特徴だ。

これがまた、昨今人気を博している「スペシャルティ・コーヒー」とうまくマッチした。……というか、サードウェーブの潮流を広義のスペシャルティ・コーヒーという人もいるし、あるいはそこを一緒くたにしている人も多い。

(スペシャルティ・コーヒーについてまで書き始めると長くなるので、リンクを貼っておきます)

スペシャルティコーヒーの定義 « SCAJについて | Specialty Coffee Association of Japan

 

このサードウェーブという波に肖って、今これらを売りにした新進気鋭の喫茶店、カフェ、あるいは豆売りなんかが日本国内でも増えてきた。

 

 

■コーヒーの「おいしさ」、ちょっと違う視点のお話

……おっと、まってまって。

この記事で書きたいのは「珈琲史概略」でもないし、「サードウェーブへの賛美」でもないんだ。

 

この記事を書きながら、僕はこうやって本題から話が逸れるからよくないんだと反省をしています。でも推敲はしない。記事の嵩増し?

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本題に入ろう。

先に書いた通り、最近のコーヒーのトレンドは「コーヒー豆本来の味を生かす」こと。

そのために焙煎がどうとか、抽出がこうとか、豆の品質管理は云々みたいな話が非常に大切にされている。

それ自体はとてもいいことだ。コーヒー豆も生鮮食品だし、品質自体を高める風潮は悪いことではないだろう。

 

が、しかしだ。

コーヒーという液体を楽しむうえで、絶対に必要だろうと僕が考えていることがあるのだけれど、このサードウェーブコーヒー「でも」、その要素は切り捨てられてしまっていた。

 

僕は、その事実がすごく気に入らない。

だからこの記事をしたためているのだ。

 

その要素って何か、というとそれはずばり「コーヒーが入る容器のこと」になる。

 

 

■灰かぶり姫

このブログのほかの記事をみていただくとわかると思うけれど、僕はコーヒーカップが好きだ。まだまだ少ないけれど、現在所持するコーヒーカップは、70客程度までに増えた。

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今出しているのはこんな感じ。出し切れない分は段ボールで眠っている。

 

ちなみに、このブログは本当はコーヒーにまつわる色々な話を書こうと思って作ったのだけれど、なぜかコーヒーカップの話ばかりになってしまっている。

 

 

サードウェーブコーヒー」や「スペシャルティコーヒー」を売りにしている、ここ最近で有名になった新進気鋭な各店舗なんかに行ってみると、とてもいいシチュエーションのお店が多い。

何かしらテーマを持って空間づくりをしているのだろうし、非常に好もしく感じるのだけれど、その「こだわりのコーヒー」を頼んでみると、抽出された液体は紙コップに入って出てくることばかりだ。

(これ、もし「僕・私のお店は違うよ!そんなことはない、お前の見聞が狭いだけだ!という方いらっしゃったら、ぜひご教示ください)

 

こういう提供をされるたび、僕は絶望する。

いや、持ち帰りでというならばまだわからないこともない。

でも、その紙コップのコーヒーが席に座っている自分の目の前に置かれる現実がある。

 

いいコーヒーを売りにしていても提供される器がこれでは、まるで「灰かぶり姫」ではないか。

いい空間があって、心地の良い曲がかけられ、ゆったりとした時間が流れる。

そんな空間に突如として現れる紙コップで給されるコーヒーは、魔女に出会えず、魔法をかけてもらえなかったシンデレラだ。

僕は、なんとも言えない空しい気持ちを抱えたまま、シンデレラの煤けた頬に口づけることになる。

 

 

■コーヒーのドレス

舞踏会にはドレスとガラスの靴を。ではコーヒーはどうだろう?

コーヒーにとって、器はドレスだ。

女性のドレスには、様々な意味があるらしいのでこのように例えたが、実際コーヒーカップには様々な意味やテーマ、モチーフがある。

僕の好きなウェッジウッドなんかは特に顕著で、膨大なモチーフ数があり、その数だけ意味合いが変わってくる。

 

飲む人にとってうれしい日、かなしい日、いろいろとあるなかで、それを組んで相手に寄り添うようなコーヒーを、相手を時に華やかに、時に静かに器で彩るのは、とても大切なことだ。

 

コーヒーは当然それ自体を楽しむことは大切だが、コーヒーの「おいしさ」は決して液体そのものだけでない。

シチュエーション然り、その人の感情然り、そうして、それらに迎合する器の着飾り然り。

 

それらは古くからここ最近の間までずっと大切にされてきたことで、そしてそれは、とても大切なことのはずだ。

 

 

■結局何が言いたいの

なんだろう。

コーヒーカップを気にかけるような人たちが、こう、皆さんにね、こう……。

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