珈琲記

敬愛するコーヒー研究家、井上誠氏の著書より題を借り、私もここに、私が愛したコーヒーを記そうと思う。

Chapter20. ミストラルと僕(短編小説もしくはポエム風味)

※短編小説もしくはポエム風味ですが実話をベースにカップの話をする記事です

※長いのでご注意ください

※オチなし

 

■Introduction

その日は、雨が降っていた。

 雨の日は客足が遠のくので、僕はカウンターで手持無沙汰にしていた。

客足が途絶えて、もう20分以上は経つだろうか。

実際、店内ではPat Methenyバリトン・ギターが静かな音色を奏でていたが、その旋律がはっきりと聴きとれるくらいには店が閑散としていた。

 

僕がカウンターに立ってアウガルテンのピンク・リボンを拭きあげながら、まだ客が来ないなら次はコンロでも拭いてしまおうか、などと考えていた時だった。

 

「そうだ、桜次郎君。俺、今月で辞めるから」

 

その日一緒にシフトに入っていて、ホールで同じく手持無沙汰にしていたA先輩は、そんな言葉を唐突に告げた。

 

■A先輩と僕

A先輩は、そう称する通り僕よりも先にこの店にいたスタッフだ。

 

それなりに仕事をこなし、だらけるときはだらける。必要以上に働くつもりはないけれど、だからといって仕事自体は手を抜いていない。

傍から見ていて、彼はそんな人だった。

 

僕がいる店は、基本的にはその店に勤務している年数が長く、かつフルタイムで入っているスタッフが順にカウンターを任されるようになる。

でも、彼だけは例外だった。

後から入ってきた僕に、カウンターに入る順を越されたのだ。

 

その理由を、僕はかつて店長であるNさんに伺ったことがあった。

曰く「Aは別に仕事ができないってわけじゃないけど、ホラ、遅刻癖があるから」。

 

そう、A先輩は仕事に関してはおおむね問題なかったけれど、ひとつだけどう改善しようもない問題があった。それが遅刻だった。

 

僕のいた店は8時に開店する。そのために、朝店をあけるスタッフは、30分~45分くらい早く店にこなければいけない。 

僕は朝のシフトを任されるようになってから、毎日1時間~1時間15分早く来ていた。

それは別に勤勉だからではなく、さっさと朝の作業を終わらせてしまって、店を開ける前に一杯コーヒーを飲みたかったからだった。

 

それに対して、A先輩は必ず遅刻した。

嘘でもなんでもなく、一度たりとも時間通りに来たことがなかった。

朝同じシフトで入っていて、45分とか1時間とか遅刻されたこともあった。1人で仕事を回しきったけれども、さすがにその時はN店長に電話をしてヘルプを求めた。

 

そんなわけでN店長は、店の朝時間帯の営業をA先輩に任せるわけにはいかなかったし、実際、上に書いたように僕に任せてからの遅刻内容を見ても、N店長の対応は全く間違っていなかったのだろう。

 

僕はその言葉で納得したし、またほかの店のスタッフについても、僕が朝番をやることには肯定的……あるいは好意的だった。

といっても、それは僕が早く来てさっさと開店準備を済ませてしまうので、朝一緒にシフトに入ることになった人は何も仕事をしなくてよいからという、なんとも後ろ向きな理由であった。

 

そんなわけで、僕は朝店を開ける大役を仰せつかってから、それと同時にカウンターに入ってコーヒーを淹れる権利を得たのだった。

当然仕事はそれだけではないのだけれど、とにかく一杯でも多くネルドリップでもってコーヒーを抽出し、試行錯誤をしたかった僕にとっては、カウンターでコーヒーを淹れるために必要なそれ以外の業務はついででしかなかった。

いや、もちろん手は抜かなかったけれども。むしろ、コーヒーの抽出に心血を注ぎたいから、しっかりかっちりやったと自負している。

 

後から聞いてみると、そんな僕のことをみんなは「仕事熱心」であると勘違いしていたらしく、また自分の知らないところでN店長にはかなり評価されていたらしい。

 

でも、どうやらA先輩だけは僕が「遅刻もせず勤勉で仕事熱心である」ことが不満だったらしい。

そしてついでに言うと、当然「自分より先にカウンターの業務を任された"桜次郎"というヤツの存在を、あまり面白く感じていなかったらしい。

 

僕はその事実を知ったのは、彼が退職する前の最終出勤日だったのだが。

 

■地中海を想う

「え、辞めるんですか?また急な話ですね……」

 

僕はピンク・リボンを拭いている右手を止めて、驚いて彼のほうを見た。

彼は飄々とした態度を崩さず、薄らと笑みを浮かべて「うん、店長にはもう話してあるんだ」と答えた。

 

「どちらか別の場所に転職……ということですよね」

「うん、そうなる。どことは言わないけれど、リンゴのマークの会社に、契約社員だけど内定をもらえたんだ」

 

僕はしばし逡巡して、「それはおめでとうございます」とだけ答えた。

それ以上は特に話せることもないと思ったからだ。

その話を受けた瞬間、僕はどちらかというと、A先輩が居なくなった後にどうこの店を回そうか、とそれだけに頭が支配されていた。

 

「もちろん、転職してもコーヒーは趣味として続けていくんだけどね」

 

彼は笑いながらそう続けた。

「尤も、桜次郎君みたいにコーヒーカップを集めてたりしないから、マグカップで飲むんだけれど」

 

その言葉を受けて、僕は反射的に聞いてしまった。

「A先輩、どんなマグカップ使ってるんですか?柄とか、色とか」

 

僕は人に器を見繕うのが好きだった。

カウンターでコーヒーを提供しているときも、家で友人や知人にコーヒーを出すときも、その人に合う、そのシチュエーションに合う器を選ぶことを大切にしていた。

 

遅刻がひどいとはいえ、曲がり形にも自分の先輩の門出なのだから、祝うべきだろう――反射的に彼の好みを探ろうとしてしまったけれど、自分のその発言を受けて僕は彼にコーヒーカップを送る気でいる自分に気が付いた。

 

そんな僕の急な質問に、彼はしばし考えるしぐさを見せてから

「そうだなぁ、家で使ってるマグカップはただの百均のだよ。だけど色が気に入っていて、シンプルな白に青と黄色、あと少し緑色が入ってるおしゃれっぽいやつなんだよね」と答えた。

 

彼の回答を「なるほど」などと言って聞きながら、僕の頭の中にはもうどの器にするかというところまでが出来上がっていた。

 

(本人的に)めでたい転職で、彼の人生に今追い風が吹いているのだとしたら、その風に乗って、風とともに暖かな地中海まで吹き抜けてもらいたい――。

 

色味も本人の好みに合致するし、意味合いとしても申し分ない。

これしかないと僕は確信した。

 

ミストラルと僕

A先輩が「俺もそろそろキャリアを~……」などと宣っていたころ、僕はその器についていろいろと思い出していた。

 

 

 

その器とは、僕がまだ函館の自家焙煎珈琲店にいた頃に出会った。

Wedgwoodの器でミストラル(Mistral)と呼ばれるソレは、金彩のないシンプルな風貌で、それでいてかわいらしさが主張する、とてもいい器だった。

 

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函館のとある食器屋で埃を被っていたところを見つけ、ひとめぼれだった。

詳しくは覚えていないけれど、気が付いたら店を出ていて、手元にはこのミストラルがあった。

 

それから僕はこの器を家で磨いて、おもむろにノートパソコンを立ち上げると、「ミストラル」について調べ始めた。

 

Mistralとは「見事な」という意味の言葉だ。

何語かというとプロヴァンス語という言語で、その名の通り南フランスのプロヴァンスという地域で主に用いられている。

プロヴァンス語について、これ以上の記載は本旨から逸れるので割愛するが、フランスの強い地方風にはその名前がついている。

 

 

ひとつはアルプス山脈から地中海まで吹き降ろしてくるとても強い風で、ひとつはフランス南東部で吹く強い偏西風のことを指す。

 

Mistralは一般的に冬から春にかけて発生し、それははじめ、乾燥して寒冷な強い風ではあるが、地中海に及ぶころには暖かな空気となって春を運んでくる。

 

だからいずれもこの地方風は、縁起のいいものとして扱われることが多い。

 

 

器に使われている色も、彼の好みにぴったりだ。

そんなわけで、彼を送り出すのにこの器以上の適役はないと断じた。

 

けれど、僕は彼のどうでもいい話を右から左へと聞き流しつつ、若干迷った。

果たしてこの思い入れのある器を、彼に託すべきなのかどうか――と。

 

僕は器が大事だ。

だからこそ人に器をあげるならば、その器には幸せになってほしいと常々思っていたし、今でも思っている。

 

決して職場で中トロを食べるための醤油差しとして使ってほしいとは思っていないのだ。

 

ミストラルと、そして……ミストラルと僕

結局、A先輩が退職するその日、僕は丁寧に包んだミストラルを彼に渡した。

 

「どうか大事に使ってあげてください」

 

僕が彼にそう言うと、彼はにこりと笑って「こんないいもの、使うのは怖いなぁ」と茶目っ気を含んで返した。

 

そうして特にオチもなく、A先輩は店を去り、この話は終わってしまうのだが――僕はその後、ずっと後悔していた。

即ち「彼にあの器を託すべきではなかったのではないか」と――。

 

彼は「使うのが怖い」と言った。

でも、器は使ってあげないことには日の目を見ることはない。食器なのだ、当然である。

破損するリスクを恐れて使わないでいたら、それは食器としてのアイデンティティを失ってしまう。それではあまりにも器が報われない。

 

僕はずっと後悔していた。

あの時、「使わないならあげませんよ!」と、冗談めかしてでも言っておけばよかったと。

 

今はもう、彼が日常的にコーヒーを飲むシーンで、使ってくれていることを願うしかない。

 

そんな風にして時々思い出したりもしていたのだが、先日とある店でミストラルを見かけた。

やはりひとめぼれだった。体に稲妻が走ったようだった。\いなづまのほんきをみるのです!/

 

詳しくは覚えていないけれど、気が付いたら店を出ていて、手元にはこのミストラルがあった。

念のため、財布を確認した。

僕が今月、1か月を生き抜くための食費が、なぜか財布から消えていた。

 

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琥珀よりも黒い、芳醇な香りを湛える液体を受け止めるそれは、やはりシンプルななかにかわいさのある、とてもいい器だった。

 

一口啜ると、何とも形容しがたい多幸感と一緒に、2つほど思い出したことがあった。

 

ひとつは、A先輩がよく「俺コーヒーよりココアのほうが好きなんだよね」と言っていたこと。

 

そしてもうひとつは、……。

 

 

今月、どうやって過ごしていこう。

 

 

 

ということで、相変わらず貧困から抜け出せないね!

どう考えても自分のせいです本当にありがとうございました(死亡)。

 

ツイッターのフォロワーに脅されたのでつけたWishListです(平伏)。

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オチなし、おわり。